航空四方山話


ヘリコプター(ベル47G)について


ヘリコプターとの出会い

 (館山ダンス)
 昭和43年12月上旬、ウイングマークを胸に誇らしい気持ちで、なつかしの館山基地の第211教育航空隊に着隊した。さてこれからは、ヘリコプターというものに乗るんだと自分に言い聞かせていた。いざ、ヘリコプターを見に行くと、トンボのような目玉とむき出しの骨組みでできたベル47Gが、S−55Aの隣にかわいく並んでいた。

 全金属製の大きなS―55は、朝鮮戦争で米軍パイロットの救助に大活躍し、海上自衛隊でも教育訓練や救難機として活躍していたが、着任する前にクラッチのトラブルで三浦半島に不時着したとかで飛行停止の状態でした。これまでにもクラッチのトラブル等があったようで、結局このS−55Aは、そのまま用途廃止になった。
 ヘリコプターの飛行理論から座学が始まり、本当に飛ぶんかいなと疑心暗鬼で、居眠りをこらえつつ座学を聞いていた。丁度、そこに鹿屋から同期の心無い叱咤激励の手紙に「やぶれ傘」とあり、なるほどやぶれ傘と言うのかと感心したりしていた。

飛行訓練が始まった。通常、ヘリコプターが離着陸するところには直径10Mくらいのサークルが書いてある。ヘリコプターの得意とするホバリングが始まり、どうにかサークル内には収まったが、右へ左へ、前に後ろにとサークル内を縦横無尽に右往左往し、これがいわゆる館山ダンスでした。

 若いということはすばらしく、2HOP目、3HOPともなると、サークルのほとんど中心で留まることができる様になるのである。その頃思ったのは、なんだ、ホバリングとはタイトフォーメーションなのだ、と頭を切り替えて、アスファルト舗装されて何も変化のないところに変化のわかる目標を捜していた。

技量向上の糧

  課目は進み、オートロテーションやカットガン、(オートロテーションとはエンジン故障を想定し、滑空して地面近くで大きくフレアーをし、コリオリの力でローター回転数を増やし、コレクティブを使いクッションランディングするものです。カットガンは、エンジン故障を5FTのホバリング状態でやるものです。)サークルや四角の上を一定高度(5フィート)で線の上をまたいで人が歩く速さで進んだり、線の上を右や左に進んだりと、大雑把な学生に細やかな操作が要求されました。

 クイックストップとは、固定翼で言えば着陸時のフレアーをもっと大きくしたようなもので、自分の狙ったところにぴたりと止まる、つまりホバリングができるようになることです。

 技量の向上は、学生互乗のソロです。KM−2以来のソロでもあり、お互いに本当に技量が伸びました。館山基地の北側、自衛隊敷地のそばで、若いカップルが車でいちゃついているのを、クイックストップで邪魔したりと、本当に技量向上目覚しいものがありました。

ベル47でSAR

 飛行訓練中も座学は続き、捜索救難、対潜水艦戦と進みます。捜索救難あたりからプロッティングボードを使用し、コパイロットとして方形拡大捜索等の忙しい計算等の訓練をしていました。対潜水艦戦は、教官が読み上げる数値(方位、距離)をプロッティングボードにプロットし的針的速をいち早く算出し、次のディップ位置を算出できるように訓練していました。これが、部隊で本当に役に立つとは思いもよらず、S―55A の訓練がない分、このプロッティングボードの訓練はしっかりやりました。おかげで、部隊でもプロッティングボードに関しては、それほど苦労もしませんでした。

 飛行訓練の捜索救難では、教官のヘリコプターが洲ノ崎の250度14マイルにボールマーカーを投下し、それを捜索に行くのですが、なかなか見つかりません。教官にもう一回始めからやり直せと言われ、捜索をすると第1レグ(行程1マイル)の真下にボールマーカーが見えました。計算に夢中で何にも見ていなかったようでした。
 航法が大変で、速力60ノット、海面風20ノットですから、クラブが20度以上はざらでした。館山から洲崎、観音崎、大房と回るのですが、観音崎までがなかなか届かず、大房まではあっという間に着きました。
 場外離着陸と言うのもあって、館山の南の平砂浦の砂浜に着陸したりもしました。

 館山での5ヶ月もあっという間で、ベルだけで後期実用機課程を修業し、部隊配属になりました。


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