昭和44年4月19日、館山でのベルを卒業し、候補生として部隊実習のため小松島航空隊に着任。ヘリコプターの部隊は大湊、下総、館山、小松島、大村とあとは固定翼の基地に救難飛行隊があったが、我々が行ける所は小松島のHSS−1Nと大村のHSS−1の部隊でした。
小松島航空隊に着任してみると、なんと乗る予定のヘリコプターは飛行停止中でした。着任の約半月前に、操縦系統の試飛行で滑走路上でのホバリング中に墜落炎上したとのことでした。それでも半月もすると、飛行停止も解けて飛行作業が始まりました。S2Fと同じR-1850の星型ピストンエンジンで、爆音高く飛び始めました。
当時の2Pの仕事は、通信もさることながら、館山で習ったプロッティングボードを如何にうまく使って航法をやるかでした。小松島を離陸したら陸岸を避け、離陸前に予想した風で計算した伊島までの進路と到着予定を、実際の風で計算し直していました。
伊島を発動したら、やはり、対潜水艦戦の訓練で千トン以上くらいの貨物船等を目標に、海面にホバリングしソナーを下ろし、目標を探知して、それを2Pがプロッティングボード上にプロットして的針的速を算出し、次のディップ位置を決め機長に進言し、ディップ位置までの針路と飛行秒時を算出し、見張りを行い、針路を進言し、時間になれば旋回を進言すると、本当に目が回るような忙しさでした。
帰りがまた大変で、伊島に着くまでに小松島港を出港した和歌山行きの南海フェリーに会合せよと来た。逆会合法を解いて針路と時間を算出し、あとは運を天に任せたような感じでした。これも、回数を重ねるうちに、遥か彼方に見えていたフェリーが千ヤード以内になり、200ヤードになり、たまにはオントップということもあったように記憶しています。
|