航空四方山話


HSS−2Bについて


艦載HS部隊での機種転換



 昭和59年3月、大村の第122航空隊勤務となった。約10年ぶりの対潜部隊で艦載航空隊である。着任したら飛行隊事務室ががらんとしていたのを覚えている。
 早速、運用班に配置され、確か、空団司令官の初度巡視の説明資料とトラペア作りに追われた。運用班は他に候補生が一人くらい居て、何がなんだか分からない内にトラペアを作り上げたみたいでした。
やがて、搭載解除で皆が帰ってきて、がらんとしていた事務室が一杯になり、見知った顔があちこちにありました。

 HSS−2Bの座学が始りましたが、運用班に電話が入るので直ぐに呼びに来られて、電話の応対を済ませて座学に向かおうとするとまた、電話が鳴り種々調整等をしているうちに、座学終わりましたと印鑑を押してシラバスを持ってきていた。このようにHSS−2Bの座学は、ほとんど受講することが出来ず、同期からHSS−2Bの転換訓練資料を借りての独学でした。

 飛行訓練が始り、バートル6年間のタンデムヘリコプターの癖が抜け切らず、1年間くらいラダーで苦労しました。まず第一は、最初のタクシーアウトで旋回するときに思わずコントロールスティックを左に倒し教官をあわてさせたことでした。ラダーが使えるんだと、思いっきりラダーで旋回し、これは直ぐに治りました。しかしながら、次が1年くらい掛かりました。それは、空中で旋回するときにラダーを踏まないことです。バートルはSASがメインでしたので、バンク30度までの旋回時にはラダーを踏むことはなかったからです。これは結構大変でした。旋回を始めて、何かむずむずするなと思い「ラダー、ラダー」と踏んでいました。

 10年ぶりの対潜水艦戦ですが、HSS−2BにはHSS−2のソナーだけとは違い、S2Fの能力が加味された感じでした。レーダー、マッド、ソノブイ、ESMが追加されており、ASA−13と言うアナログのプロッティングボードがコンピューターを使ったTDDS(タクティカル・データー・ディスプレイ・システム)になっていました。したがって、航空士にもS2Fからの転換組も居ました。もちろん、ASEも性能向上が図られていて、ソナーのためのートアプローチなどはきわめて安定していました。
 レーダーの訓練は、航空士が主で、小目標を探知させその目標までの誘導訓練や、小さなレーダーリフレクターを作り海面に投下して、航空士に探知させる訓練をしていいました。

 マッドの訓練は、航空士もさることながら操縦士も真剣にやっていました。トゥーイング・マッドですから、機体を滑らせたりすると擬似信号が出て実目標を探知できなくなるのです。水上船舶を目標に、高度1000Ftくらいでマッド探知を得、1000ヤードサークルに入り2回目の探知を待ちます。2回目の探知があると的針的速が算出されるので、攻撃となるわけです。ちなみに、HSのマッドは、P3と同じでオプチカルポンピング方式とかで、対地速度が速ければ探知距離が伸びると言うので、潜水艦を目標のときはできるだけ風上からオントップできるように引っ張った(飛んだ)ものです。

 ソノブイ戦術はソノブイを敷設して伝送するので、その訓練は、OFTやSATTでの訓練が主で、たまに艦に搭載したときの実艦的対潜訓練で、ソノブイから立ち上がることがありましたが、まったく探知できませんでした。同じ海面で、P3から○番ブイに探知信号が入っていると教えてもらっても、船の解析では探知が出来ませんでした。艦載部隊を離れた頃に分かったことですが、伝送装置の回路に誤りがあって、信号が減衰していたようです。実用試験をしたのは誰だ!
 ESMについては、電波の到来方向と強度が分かると言うもので、海演等の前になるとテーブルを差し替えていたようです。特に訓練はしていませんでした。

 1PRになり、開隊記念行事の編隊長を命じられました。当時は大村航空隊がメインで、122空は間借りしている状態でした。村空の3機に続いて122空の3機も上空を見事な編隊で通過し、単縦陣になって村空3機がローパスを始めました。我が編隊も、村空機の後方500ヤードくらいに付いていましたが、200Ftをキープしてエプロンに掛かるところで、20度ノーズダウンでダイブし、ローパス後は20度ノーズアップで離脱しました。後ろの2機はどうしたのでしょうか。これで、一気に大村の基地と大村の夜の街にデビューできました。

 10年ぶりの対潜水艦戦ということで不安がありましたが、実艦的でディップして目標を探知してみると、水平思考の昔の勘が直ぐに戻ってきました。TDDSで、目標を探知している僚機をレーダーでインプットし、そこから探知点を入力して、疑わしい目標は、直ぐにマッドで確認ができるようになっていた。目標の類別精度が、ソナーだけでなく、マッドが加わることによって、簡単に確かなものとなっていた。


海の男だ艦隊勤務


 DDHの発着艦訓練がはじまり、艦上でのホバリング時、始めはコントロールスティックが、直径30cmを超えんばかりだったのが、資格検定の頃には直径10cmくらいになり、教官になる頃にはほとんど動かないで直径3cmくらいだったと思います。
 次に、DDの発着艦訓練ですが、これがDDHよりも楽なのです。格納庫とローターのチップパスとの距離が5mと言う緊張感と目標が近い、乱気流が思ったほどないのが理由でしょうか。しかしながら、夜のアプローチは大変気を使いました。DDのヘリコプター甲板の左後方で一旦ホバリングを確立し、ヘリ甲板に進入しますが、始めの頃、高度が少々高くても安全だからとそのまま進入すると、格納庫上の右舷にあるスパローミサイルのレドームが計器版に入り見えなくなり、リファレンスポイントを失って思わず右に逃げてしまい、自分ひとりで怖い思いをしていました。2Pに艦の位置を聞いて再度場周に入りアプローチをやり直し、格納庫の上縁が見えるようにヘリ甲板に進入しました。

 教官、検定官、チーム検定官と資格が付いてくると、艦への搭載や訓練での出張はすざましく、年間で215日とかの記録を作ったことがありました。安全幹部をやっていて、搭載解除で帰ってくると、資料を集めて安全会議の資料を作り、隊内の安全会議を行います。議事録を作り、修正事項等を手直しし、火曜日のYS定期で厚木経由館山へ出張して、21航空群の安全会議に司令、飛行隊長と共に参加します。会議が終わって帰る段になると、一人残されて、OFT訓練のチームが送り込まれてきて、それの訓練や検定をし、金曜日に厚木に移動し、土、日を厚木で過ごし月曜日にYS定期でやっと大村に帰ります。大村に帰ると、また直ぐに搭載で、落ち着く暇がありませんでした。こんな状況ですから、同じ事務室に居ても、2、3ヵ月会わないのは珍しくありませんし、いつの間にか新人が転勤してきていたりとかしていました。

 通常、DDHへの搭載は、3機、6チームの24名で、飛行隊長か先任幹部のチームが含まれます。DDは、1機、2チームの8名です。どちらにも資格取得の訓練員が追加されることがありました。各チームもDDH組とか、DDでは艦まである程度固定されていました。しかしながら、発着艦の教官、検定官、チーム検定官になると、自分のDDは搭載が終わっても、別なDDが出港すると言えば一人だけ乗ったりチームごと乗ったりして、訓練や検定をやっていました。

 当時、第2護衛隊群が群行動をすると、土曜日に佐世保を出港、搭載して、横須賀に入港し、月曜日にSATTで事前訓練をやり、1群の艦を加えて出港し訓練海面に向かい実艦的対潜訓練等を行い、金曜日に1群の艦はその場で解散、2群は佐世保まで帰投するので土曜日や日曜日に搭載解除となるわけです。なにしろ、訓練の第2護衛隊群ですから。
 群訓練等で行動中、敵潜水艦から想定魚雷攻撃あるいはミサイル攻撃を受けたとなると、各艦からヘリコプターが我先にと飛び上がります。昭和60年頃は、一度に6〜7機くらいが飛び上がっていました。事象が終わって各機が、各艦に帰艦するのですが、艦隊は3マイル以内くらいの海域にいるので大混雑です。夜間は特に大変で、艦を間違えてアプローチする者も結構いました。昭和61年頃になると、各艦の待機が決められるようになり、事象が発生しても一度に飛び上がるのは4機になりました。

 第2護衛隊群では、想定敵潜水艦からのミサイル攻撃を受けたりした場合、最初に飛び上がったヘリコプターをデイタムに誘導します。その内にヘリが4機になり、どのヘリがリーダーか分かるように機番号の後ろにアルファベットを付けたコールサインが決められていて、「おっ、俺がリーダーだ」とヘリ4機の指揮を取ることになります。

 ある時、自分が最初にデイタムに到着、リーダー機になり、ディップして、ソナーを下ろしたが「機長、ソナーが発振しません」とのレポートがあった。前にもあったトラブルなので「このまま、聴音で捜索」を令し、他の3機にプランを下令した。デイタム・タイムから20分が経過するので、次のプランを下令し、「本機ソナー発振せず、マッド捜索を行う」と通報した。2番機から「東側に行きたい」旨の進言があったが、「下令どおりに北に行け」と命じた。更に2回ほど東に行きたいと言ってきたが、最後には、「北に行けと言っただろう」と突っぱね北に行かせた。各機がディップした途端、その2番機から「ソナー探知」の報告が入り、直ちにマッドで探知点を捜索したところ「マッドマン・グッド」で攻撃を行い、攻撃信号を送信させ、潜水艦を中立にすることが出来た。

 また、ある時は、海域を決められて、エリア捜索を行ったが探知を得ず、帰艦して「ノー・ジョイ」と報告するのであるが、バートルを経験していない時は、しゅんとなって報告していたのが、バートルを経験したことにより、胸を張って「ノー・ジョイ」と報告できるようになっていた。

 昭和59年に122空に着任し、60年夏には、部内幹候修業者のグァム、フィリッピン方面の遠洋航海に第3護衛隊群の「はるな」に搭載されて参加した。翌年は、第2護衛隊群主体のリムパックに「みねゆき」に搭載して参加した。更に次の年には、一般幹候修業者の世界一周遠洋航海に、「まつゆき」の飛行長として参加した。この時は、前任の飛行長が不整脈で遠航には行かせられないと艦を降ろされ、呉港出港の一週間前に、急遽、飛行長交代の転勤で遠洋航海の準備等も何もなく、普段の搭載のような形で乗り組むこととなった。


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