航空四方山話


V107Aについて


TAXI


 昭和53年3月、下総の第111航空隊勤務となった。V−107Aバートル、掃海ヘリコプターの部隊である。同期でバートルに乗ったのは私だけなので、ちょっと詳しく書きます。この時期は、バートル部隊が対潜部隊との人事交流を始めた頃のようであった。HSS−2部隊からの転勤者が多く機種転換訓練が大盛況で、12月に転入してきた人がまだ転換訓練中であった。実を言うと、私も12月に転勤が内定していたが、ラグビーの試合で負傷し年を越した次第でした。

 バートルの転換訓練がはじまって、まず、タクシーアウトが出来ないのにはまいりました。下総のAエプロンは格納庫に向かってちょっと上り坂になっていて、タクシーのためにコレクティブを上げて前進まではよいのですが、左に曲がろうと座学で教わったとおりコントロールスティックを少し左に倒し左のブレーキを踏むと、曲がらずに止まってしまいました。教官が「アイハブ」と言って、コレクティブを下げるとあら不思議、スーと左に曲がるではありませんか。後で気付いたことですが、バートルの前輪は負荷がかからなくなると機種尾線に沿って真っ直ぐになろうとするようになっていました。なぜ、左ラダーを踏まないのかと言うと、地上でラダーを使うと後方のローターがドループストップに当たって、ドンドンと振動が出るドループストップバウンディングを起こすからです。

 ランプインがまた大変で、エプロンの端っこを進んできて、1ブロック過ぎたところで左に旋回し、旋回が終わったときにはラインに乗っているようにします。そして、犬のようにチンチンをして、曲がったままのノーズタイヤを真っ直ぐにするのです。HSS−2のような尾輪式と違って地上での操作は結構難しいものでした。

 空中では、ノーズ位置を保っておけば速力は一定していてよいのですが、通常はSASだけで飛んでいたので結構気を使いました。SASは、HSS−2のように姿勢を保持するのではなく、加速度を検出して制御する安定増大装置ですので、姿勢を保持してはくれません。

シングル エンジン

 場周訓練で特異なものは、垂直離陸時のエンジン故障の訓練でした。ビルの屋上からの離陸を想定し、ひとつのエンジンが故障したら離陸したところに着陸するかどうかと言う訓練でした。

 スポットでホバリングし、足元の窓からスポットを視認しつつ上昇(若干後方に)し、100Ftで片方のエンジンをアイドルに絞り、シングルエンジン状態とします。コレクティブをちょっと下げてローター回転数を保持し、ノーズを25度下げてスポットに突っ込み、50Ftでシングルエンジン飛行可能速度になっているかどうかを判断し、速力が不足の場合はフレアーしてスポットに着陸、速力が足りていればそのまま飛行続行となるわけです。

 25度ノーズを下げると、まっさかさまと言う感じになり、最初のこの訓練では教官が「絶対に操縦桿を引っ張るな」と注意をしてからデモをしていました。

ミラー計?

 海面上では、HSS−2のように一点にホバリングしていればよいと言うものでなく、掃海具を投入して引っ張らねばなりません。
 まず、ホバリングして掃海具を投入します。このときはASEを入れますが、HSS−2に置き換えれば、SASがベーシックでASEはカプラーのようにSASの上についていましたが、このASEの能力が低く結構気を使いました。

 掃海具投入でのメインの計器はバックミラーでした。バックミラーを大きなスポンソンが真ん中に来るように調整(もちろん手動)し、ケーブルを真ん中に見るように操作します。左右の席で操縦できるように、計器版の配置は左右対称になっていました。これが、教官になって左席で1Pの教育がしばらく続くと、右席の乗ったときに速力計がないと言って探すことが度々ありました。

掃海具の展張が終わると、水路に入って掃海の開始ですが、水路の端っこに着くとUターンしなければなりません。これがまた大変で、まず右に30度回頭して次の掃海番線までの横距離が500ヤードくらい開くまで進み、そこで左に180+30=210度、回頭するわけです。

 右に30度の回頭ですが、まず、機体を右に滑らせ、トーアングル(引っ張っている掃海具と機首尾線との角度)のずれをラダーで直し、また滑らせてラダーを使いして、30度回頭するわけです。Uターンは左に210度回頭するわけですが、風上に向かって掃海を始めたとすれば、この回頭中に右横風を受け最後は追い風で水路の番線に入ることになります。マッドの1000ヤードサークルよりももっと難しくなります。

 右に30度開いていますので、若干の左横風で機体を少し左に傾けて引っ張っています。この状態から、更に左に傾けて滑らせトーアングルを合わせながら回頭してゆきます。海面風が正面から右に変わってくると、機体は水平でも左に滑ってくれます。更に回頭すると滑りの調整のために機体を右に傾けながら左ラダーを使いトーアングルを合わせます。このように複雑怪奇な操作をして次の番線に機体と掃海具を乗せるように操縦します。

 当初は、こんなこと出来ないと思っていましたが、慣れてくると平気な物です。まずホバリングしたときに、水平線に合わせて風防にチャイナペンシル等で印を付け、そこから上に約5cm間隔で三つの点をつけていました。この点に水平線を合わせておけば速力が一定で、島等、陸上の目標があれば針路を一定に保てるし、簡単なヘッドアップディスプレイになりました。MH−53になった今も一部の者は使っているようです。

 当時、掃海は音響掃海(MK−104,ベンチュリー)と繋維掃海(MK−103,バーモァ)をやっていました。音響掃海は発音体を400ヤード位の軽いロープで引っ張って、長さ4000から8000ヤードで幅600ヤードの水路の2番線と5番線をくるくる回るようなサーキットで引っ張っていました。速力は約24ノットで26ノットより早くなると発音体が海面に浮いてきて空中に跳ね上がり壊れてしまい、20ノットより遅いと音圧がでないしと、速力の保持には大変気を使いました。ここで役に立ったのが、風防に記した点です。そして、航法はデッカ航法で、確か理論値で25cmの誤差だったと思います。

あるMINEXで、私の編隊は、音響掃海で水路を10往復したが機雷を処分することは出来ず、帰投し着陸した。次の編隊は、掃海を始めてすぐに機雷を次々と処分し、意気揚々と帰ってきた。これは、私とこの編隊の成果なのである。機雷には、航過係数なるものがあって、10回音を探知したら発火するとか、20回とかに決めて敷設しているからである。最初の10往復がなければ、次の編隊での機雷処分もなかったのである。

 自慢話をひとつ。ある年、相模湾でデッカ航法による音響掃海の術科競技があり、我がチームは標準偏差14ヤードくらいで見事優勝しました。しかし、掃海の途中で針路が変わるので納得が出来ず、デッカのマスターチャートを作る海曹に間違いがないか正しましたが、「10年来、マスターチャートを作っていて、間違いはない」と言われた。再三間違いないかと聞いたら、「緯度が1度違っていた」との返事を得た。これに気付いていたのはあと1チームの機長(浅野君)だけでした。

 繋維掃海は、Jの下にJを左右につけたような鋼の索に、ひとつのJにフロート1個、展開器1個とカッターを10本つけて、幅100ヤードくらいを掃海していました。速力は6から8ノットで、通常掃海艇のレーダーでコントロールされていました。掃海が終わると掃海具の揚収ですが、AO(機上武器員)2人と、AT(機上電子員)とFE(機上整備員)の2人が手伝って4人でやっていました。最後のフロートが問題で風袋の割りに重さがないものだから、ダウンウォッシュで触れ回り時々機体にぶっつける者が居ましたが、我がチームでは、風があれば横風でホバリングし、フロートをダウンウォッシュから外してクリーンな風を与え、風がなければ機を滑らせて横風を作りスムースに揚収していました。

風速60ノット下のホイスト救助


 バートルでは、S55.2.1、犬吠埼沖100マイルでの海難救助に出動したことがありました。当初、館山のヘリが救助に出ていたが、2機づつの4個編隊が出てホイストケーブルを切断して、とうとうバートルにもお鉢が回ってきたといった感じでした。犬吠埼からの方位距離をもらい一路現場に向かいました。北西風が強い日で、洋上に出ると40ノット以上吹いていました。海保のヘリがホイストを切ってローターのマストに絡ませて、成田空港に緊急着陸を要請しているのを傍受しつつ進出しました。次は、現場のHSS−2編隊のボイスが入ってきて、「リーダー機、ホイストが切れた」、「2番機進入する」、「2番機、ホイスト切断離脱する」を聞いたときに、遭難船とヘリが見えた。「レスキュー・イーグレット、オンステーション」を届けると、HS編隊は離脱、帰投してしまった。

 冷たいなー、と思いながら進入すると、遭難船は機関が停止して船首を南東に向け風に横になって、強風と波浪のために左右45度ローリングしていた。船首付近に近づくとホイストのスリングが4個くらい手すりに絡まっていた。
 ホバリングすると60ノットである。
 船を目の端に捉え、波頭を目標にクリューの誘導に任せていると、右目の端に船体が左に傾いた際にビルジキールから海水が滝のように落ちるのが見えた。一人救助、雪雲が来たので少し左によけて、「皆、○○はあるか? 俺のは縮こまっているぞ」と緊張を解いたつもり。雪雲が過ぎ、近寄って救助作業、2人目、3人目と救助したところで、バートルの2番機の声が聞こえたが、タカンも入らず誘導するすべがない。新聞社の固定翼が上空を飛んでいたので、「タカンのポジションを2番機に通報してほしい」と依頼すると、直ぐに通報していた。これが民間に移った18期の角野君だった。4人目、5人目を救助したところで2番機にバトンタッチ、2番機が一人目を救助してから離脱しようと考えていたが、2Pから燃料がないとのことで、そのまま館山への針路に向けた。

 御宿に差し掛かったところで、2Pから「燃料が足りない、館山の手前でエンジンが止まる」とのリコメンド。その前から暗算していて、この風なら何とか大丈夫と計算していたので、不安を持ちながらも「そうなったらどうする?」と2Pに質問すると、「早めに学校のグラウンドにでも下りたほうがよい」との答えであった。陸に入れば少しは風も収まると信じ、飛行を継続し無事館山に着陸、エプロンに入りローターを止めた時に残燃料は、200ポンド、約15分ぶんであった。

 救助の機内配置は、ATが右のハッチを空けて誘導し、AOは腹ばいになってホイストの操作をしていた。ホイストケーブルは、機体中央の床のハッチから外に出るようになっていた。館山に下りてからの話では、ATが一番怖かったようで、船首のマストが目の前に迫り声を出して誘導しなければいけないときに、その場にへたりこんだそうである。

 バートル部隊は出張が多く、主なもので5月の実機雷処分訓練(硫黄島)、8月のMINEX(陸奥湾)、10月の海自演習、2月のMINEX(周防灘)とあり、MINEXは部隊のほとんどが移動し、実機雷処分は部隊の3分の1と言う感じで出張していました。そのほかに、各地方隊の掃海艇との協同訓練や、各基地の開隊記念行事の展示や体験飛行等でも出張していました。

 バートルでは中級を含めて丸6年間過ごし、艦載部隊の大村122航空隊に転勤となりました。

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